キャプテン三宅、2度目のラストフライト

2003年3月27日、午後5時25分。一人の男が2度目のラストフライトを終えた。先程まで雨を降らしていた雲の隙間からの西日が、のべ約20700時間に及ぶフライトを終えタラップに立った三宅キャプテンをやさしく包んだ。三宅氏は、日本エアシステム、ハーレクィンエアーの国際線運航に関して尽力した一人であり、その人が地上に降り立った瞬間であった。


タラップを降りる三宅氏

三宅氏の簡単な経歴を語ると、昭和39年より航空大学卒業と同時に、日本国内航空に入社、コンベア240、YS-11の副操縦士を経て、昭和45年にYS-11の機長となった。昭和49年(東亜国内航空時代)にはDC-9(MD-80)の資格を取り、1988年日本エアシステムになってからDC-10に移り、更に1997年から日本エアシステムの子会社である、ハーレクィンエアーへ出向。約3年間の国際線チャーターを飛び、2000年3月25日、会社の規定により満60歳となる前にラストフライトを迎えた。このラストフライトと同時にこのDC-10もハーレクィンでの役目を終え、ノースウエスト航空へと引き継がれた。三宅氏のこのラストフライトは、愛育者から出版されている「ラストフライト 国際線・機長席」(コクピットボイスも収録したCD付き)で詳しく語られているので、それを参照いただきたい。

クリアランスをもらう三宅氏

三宅氏は一度目のラストフライト後も3年間の延長期間をもらい、ハーレクィンエアーに残った。運航本部長を務める傍ら、再びMD-81の乗務に戻り、後輩の育成に力を注いだ。以降は日本エアシステムのウエットリース便として、福岡を中心に宮崎、鹿児島、松山、奄美大島、徳之島などへの運航を行った。



ファイナルで差し込んだ光芒


今回の2度目のラストフライトは2レグで、福岡-松山往復(JD873、JD872)であった。往路は、午後3時27分、雨の中を離陸。巡航に入る頃になると青空も見えたが、降下に入ると再び雲の中であった。午後3時52分再び雨の中を、松山空港へタッチダウン。天候は優れぬままであった。